プラグマティズムVSアカデミズムの戦い。

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大なり小なり僕らは何かを生み出して生きている。
何からの価値を。

あなたは何を生み出しているのだろうか?

それはあなたが生み出したいものなのだろうか?

プラグマティズムとアカデミズム。
この対極にある主義思想について考えてみた。

皆さんにもこの問題について考えてほしいので
今日は投げかけをするとともに私見を書いておこうと思う。

アカデミズムでは飯は食えない。
それは事実。

多くのアカデミックな人々の大半は極貧だ。
早稲田でも修士、博士課程で研究にはげむ院生たちの中には彼女に養ってもらっていたり、何らかの裏稼業で生計を立てている人間も少なくはない。

プラグマティックなことはとにかく金になる。
なぜならプラグマティズムの本質とは無駄をそぎ落とすことにあるから。
お金にならないことを排除して、徹底的に実利に生きることができる。

しかしこの極の両方のバランスをとること。
これが何より肝要。

極に走りすぎると必ずもう一方で歪みができる。
その一端が今の世界的な不況であり、さまざまな社会システムのほころび、破綻となって僕らの目の前に現れている。

つまり僕らがこの十数年間やってきたことの代償が一遍に今
社会的なシステム破たんとして目の前に提示されているわけだ。

日本でも小泉改革といわれる一連の社会システムのリストラクションが
数年前に断行された。

私個人は小泉元首相のような異分子的異端児は好きだ。
生き方として格好いいとも思う。

しかし、小泉改革の本質とはプラグマティズムへの舵きりでもあったといえるだろう。


例えば国立大学を独立行政法人にした。

これは、文部科学省はもうお金を出さないから自分たちで食っていけということ。

つまり「僕らはもうお金を出さないし、あんまし出せないから、君らで企画をして、お金の儲かるようなことをして、会社めぐりをして、自分たちでお金を集めて食っていきなさい」という自由を与えたわけだ。

これは、アカデミズムを捨ててプラグマティズムになれということでもあるだろう。

郵政民営化というのも似たような原理だ。
社会全体でプラグマティックなことをしていこう、それをよしとしよう。

そういう価値観が日本にかつてないほど万延したのがここ数年間。


1992年 秀潤社 コンピュータ科学vol.2 NO6より
アメリカに目を転じると,アメリカにはデューイのプラグマティズムが生きている。この哲学思想は机上の思弁の中から生まれたのでなく,建国時の開拓精神,生活闘争,民主思想にルーツをもち,むしろそれの集大成であるといえる。プラグマティズムはアカデミズムと対立し,真理のための真理探究を否定し,知識はすべて現実生活のための手段,道具であり,行動を通して実際的な効果を実生活の中に実らせるものでなければならないと主張する。アメリカ民主主義の下では二つの社会階級は存在せず,従って学問と技術の二元論も当然否定された。こういうプラグマティズムの土壌の上で,実生活に直接結びつくコンピュータの研究,技術教育は爆発的に歓迎され,学問・技術を一体として扱うコンピュータ技術教育は,何の抵抗もなく受け入れられ見事な成果をあげるに至った。世界で群を抜くソフトウェアの開発技術も,この土壌が育てたものであろう。
 ところでわが日本は,明治以来,「大学」の思想をヨーロッパアカデミズムに基づいて輸入し,大学を創設した。ヨーロッパの伝統に従って「学問」と「技術」を対立概念としてとらえ,「真理探究,学問教授の場としての大学」と「職業技術訓練の学校」という二つのカテゴリーを相対立するものとして教育界に定着させてきた。太平洋戦争後,大学=アカデミズムという既成概念の下で,次々と大学が誕生し,そして,今日(内外知識人から指摘されるように)似非アカデミズムの氾濫である。大半の大学において,アカデミズムは本来の意義を失い,社会に役立つ人材を送り出す教育責任のアリバイとして用いられる現状は周知のとおりである。日本には,ヨーロッパのように,職人階級,非職人階級という二つの社会階級は存在していなかったのであるから,「学問」と「技術」の対立概念,二つのカテゴリーへの教育機関の分離などは輸入する必要性はなかったのであるが,明治における西欧文明の輸入吸収にあまりに性急であったためであろうか,大学制度の輸入と共にそれに附随してこの二元論的思考も輸入され,人々の固定観念となった。元来,日本には江戸時代から実学の伝統があり,この伝統をふまえて,大学の思想をアカデミズム一色でなく,多様性をもって発展させてしかるべきであったのである。

私たちの国はかつてヨーロッパ的アカデミズムや、リベラルアーツ(教養)主義的な見地から建学されていった大学が成立したという歴史的前提を持っている。

いうまでもなく、プラグマティズムが強い国として代表的なのはアメリカだ。

北米北部でデューイやジェームスに端を発し、生まれたアメリカ的哲学がプラグマティズムだともいいかえることができるだろう。

日本はここ数年で、いや、上記引用によれば太平洋戦争以後、
よりアメリカ的になっていったといえる。

それは資源のない国として、
資本主義経済の中で勝ち残っていくための必然だったのかもしれない。

そのために米国的な価値観の代表でもあるプラグマティズムに学び、
様々な社会システムの中に組み込んできた。

それは今の現代日本を考える上で、避けて通ることはできなかった必然に違いない。
日本がプラグマティズムを拒否していたとしたら、今のような経済的な発展はとてもではないが望めなかっただろう。

しかし、同じ資本主義の国でもイギリスやフランスは少し違う。
米国や日本よりもよりアカデミズムが良しとされる。

いずれにせよ、僕らに極に走りすぎた代償はかくもでかく、
再び中庸を目指すべしというメッセージなのかもしれない。

そんな中で僕ら実業界にいる人間たちが、何をよしとし、何を目指すか、
何を生み出すのか?

そこを再び見据え、生き方について本気出して考えてみる価値があるかもしれない。

プラグマティズムはニーズ的。
アカデミズムはウォンツ的。

どちらもバランスが大切で、
両方を満たすものは美しい。

マーケティング的観点からも、
同じことがいえるだろう。

▼今日のありえない発見★

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ボコボコと音を立てるつけ汁。
石焼風の器で、アツアツの汁につけて麺を食す。

早稲田に新しいつけ麺屋ができたようだ。

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